朝焼けに檸檬

アラサー。創作をしています。不定期更新です

『我が生活』、『散歩生活』考

中原中也『我が生活』『散歩生活』について。私論。

 

どこへ行くにも切手の綴りをたくさん持って、筆まめ、お昼から夜中までよく歩く。それが中原中也という人である。

『我が生活』の頃、彼は恋人と別れる。「私はほんとに馬鹿だつたかもしれない」から始まるその文章は軽やかで、どこか他人のことのように、大した傷ではないのだとでも言いたげに進められる。彼の熱と、冷静とが交互に描かれており、「とも角、私は口惜しかった!」などの率直な深い後悔の後は、彼女への冷静な分析をしてみるなど、思慮深さがうかがえる。詩ではないのにリズムがあって、独特の間があって、読んでいる側は急に胸ぐらを掴まれたり、さめざめと泣かれたり、そんなことを彼にされているような錯覚に陥る。

 

ここに、中也がいるのだ。

ホラ、ホラ、ごらんよ。

「口惜しい人」、「大東京の真中で、一人にされた」これが、僕だ!

 

対して、『散歩生活』はその出来事から数年を経てどこか熱の落ち着きが感じられる。異国の登場人物を出し「彼も寂しさう」と自らの寂しさを表現する。

胸ぐらを掴まれるような憤りのない一方で、虚空を見つめるような無力感とけだるげな様子がある。それでも毎日毎日、ただ歩き、歩く速さで思考を巡らし、詩作にふける。

途中、自分には教養が足りないのだというような主旨の話を自虐的に触れながらも、他の文学作品を引き合いに出すところもあり、「スランプ」ながら決して当てずっぽうに、行き当たりばったりで書かれたものではないことがわかる。

 

ただ、彼は、別に技巧を凝らさずとも、歩いて言葉を浮かべ、自然と詩になる、そういう感性の持ち主だったのではないだろうかと考えている。自分の頭の中で繰り返し繰り返し口ずさみ、言葉をまとめていくのだろう。

だから座って原稿用紙に書いたり削ったりしていると、そのうち別の思考を始めてしまい、まとまらずに混乱してしまうのではないだろうか。

 

悲壮な心境を書くこの2つの随筆もまた、詩ではないながら彼が迫ってくるような、一定のリズムがある。口ずさみこそしないが、印象に残るフレーズを繰り返し繰り返し詩のように使っている。それはおそらく彼の中で繰り返し流れてきた悲しみの表現をする大切な言葉たちだ。

 

こうして彼の内面に寄り添ってみると、彼の詩がまた違った一面を見せたような気がした。

どちらも短く、青空文庫で読めます。

よろしければどうぞ。