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追憶の雨の中

アラサー。創作をしています。不定期更新です

『駈込み訴え』考

太宰治『駈込み訴え』感想
ネタバレ有り











ユダは裏切った。
これはキリスト史を語るに外せぬ周知の事実である。
ではなぜ裏切ったのか。
太宰は辻褄の合う推論を創りあげた。

『駈込み訴え!』では、彼は最初、「ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。」とキリストを訴えている。
嘲弄やこき使われのため、怒りがあり、殺意が裏切りへとつながったのか。

ありえん話ではない。光り輝く人がいる一方で、縁の下で支えている目立たぬ役者は存在する。影に光が指すことなど滅多にない。また彼らはだいたいにして、理不尽な行いに対し耐えに耐え、一気に不満を爆発させることが多い。

彼は、キリストを美しいという。
年齢もさして変わらぬ、特別なところもない。ただ美しさだけを信じているという。
キリストへの信仰ではなく並々ならぬ好意を向けているにも関わらず、自身への優しさ、労りに繋がらないことへの逆恨みゆえの裏切りか。
彼はまた「私があの人を殺してあげる」「私も一緒に死ぬ」という。

言葉を乱暴にすれば、ヤンデレじゃん、である。ヤンデレとは言葉がすぎるか。では、視野が狭く、己の世界で創りあげたキリスト像が全てで、私のことちっともわかってくれないと恨み、殺したらきっと私と一生一緒ね! 状態ではないか。

その想像を裏付けるかのごとく、キリストは惚れている女がいる、とまるで嫉妬する女のような記述が続く。
一方、その女に惚れていた自分にも言及している。

ただ、そんな薄っぺらいありきたりな展開では済まない。
つくづく、読者を引き込む手法に長けていると感服させられる。
自身が訴えを聞いているような錯覚に陥る。

史実の言葉を引用し、裏切りの引き金を引いたのがキリストの発言、行動からであると説を導き出した。

もし、あの最後の晩餐がなければ、ユダは裏切らなかっただろうか。
感情の揺れがちょうど重なり、改心を経て再度裏切りに動く、涙ながらに訴え出るユダに、僕は感情移入をしてしまう。

嫉妬でもない。怒りでもない。
ただ、純粋な愛を貫いた者の末路。
愛する者の最期を、愛する故に最善を尽くし行動した、強い気持ち。
その愛の尊さと、清さをわかるものは、自身しかいない。
自身には後世まで汚点しか残らぬとしても、それでも師を選んだ。
さらに、自身を卑しめ、貶め、道化になりきるさまは、「不機嫌な顔、寂しい顔」を見せ、師からの愛に餓え、素直に愛を伝えられなかった不器用なユダ像を確立させている。

このまま斜陽するくらいなら、いっそ息の根を止めて、ひとおもいに楽にさせてくれ。できればそれは、俺を愛すゆえの純粋な行為であってほしい。

作家として不特定多数の師へとなりかけていた、あるいは既になっていた太宰の心の叫びとも通じるような気がしてしまう。
飛躍しすぎた読みは、もはや太宰の術中にはまってしまったとしか言いようがない。