創作再開しました。不定期更新です

『魔術考』

芥川龍之介『魔術』感想

ネタバレ含む

 

 

欲とは手強いもので、人は一生のうちに欲から離れることなどないのだと思う。

したいこともしたくないこともすべて欲であり、感情を無意識に無にしない限り、なくなることはない。

結局人間という者は実に欲にまみれた存在で、汚く薄汚い。

己もまたそのような汚らわしい一員に過ぎないと主張をしたかったのか、はたまたミスラのような欲を切り捨てた仙人のような聖性を持つ人間を描き、自分もかくありたいという理想を描いたのか。

だが、ミスラにそこまで聖性があるかと問われると、「親切そう」な彼と「気味の悪い微笑」をする彼とがいるので、不完全なものである。

一定以上の位置にたどり着きたければ、あるいは、なんらかの才能を開花させたければ、常人では考えもつかぬような無欲の精神がなければならないという、芸術への理想論なのだろうか。

嫌々カルタを始めた私が、いよいよ最後の瞬間で勝利の欲に目覚め、とうとう金品を手にしそうになる。欲に負けた人間のはしたなさが生々しく描かれていて、芥川作品には、随所にこうした細かい変化を手短かかつ無駄なく書くことのできているよさがあると思う。

欲にも色々あるが、描かれているのは金である。金というのは厄介なもので、あって困るものではない。あればあるだけ嬉しく、ないと困るものである。自身の金品の絡まないところまではまだ許容範囲だとしても、にわかに自分の範囲が侵されそうになると、途端に欲は生まれる。一定を越えない限り、金と無縁でいられない人間の悲しさがある。

僕は彼の書く世界が好きだ。救いのなさそうに見える世界も、目をつぶって走り去りたくなるくらいの暗い世界も、児童向けに書かれた、真っ暗闇ではないが晴天とも言えない曇天まじりの、少し説教くさい世界も、すべて。

彼の話の中に、明るくて空想ばかりのエンターテイメントのような小説はない。無自覚なのと、自覚があるのと両方あるが、いつも誰かが悩んでいたり、苦しんでいたりするような気がする。だから、そうしたものを書こうともしたのだろうか、とも考えてしまう。そして、書こうとした結果、残念ながらそうはならなかった。

 

いや、あるいは、彼なりの新しいお話を模索したのかもしれない。彼は子どもたちに新しい世界を確かに魅せた。

なんでもできる不思議なおじさんか、お兄さんか(僕は勝手に中年と空想をしている。サンタ的なものとして仮定をしてしまうから)は、異国の人でなければならない。子どもが読んで、どこか現実から離れていないとならないからだ。

不思議な人は

 

「欲があっては不思議な魔法は使えないよ」

 

という。

 

「僕、私ならできるよ」

 

子どもたちは声を揃えて明るく、そういうかもしれない。

 

「じゃあ、魔法を教えてあげるね」

 

それはたとえば、魔法という名の「ペットを飼う」かもしれないし、「新しく手に入れる遊び道具」かもしれない。

本当に君はそれを大切にできるかな。優しいまなざしで、彼は問いかける。きっと彼は「魔法」を与える前に与えられる子どもたちに考えてほしいのだろう。

際限なく与えるのは愛でも優しさでもない。怠慢である。よく考えて、それでもなお欲しいと思ったものを、大切に扱ってほしい。願わくば、自身の作品もそのように、よく考える材料のひとつとして、折に触れて再読をしてほしい。

もしかすると、そんな気持ちもあったのではないだろうか。